炭鉱の歴史を巡る情緒の秋。
紅葉美しい春採湖畔を走る、石炭を積んだ貨物列車。1925年から現在まで続く情景です。
阿寒湖畔を含む釧路市は、国内で唯一坑内掘りの炭鉱が残る街。また国内でも有数の豊富な炭層を持つ地域です。かつては多くの炭鉱が栄えており、阿寒町にあった雄別炭鉱もそのひとつ。国立公園の指定を受けて温泉地として発展してきたこの阿寒には、炭鉱の姿もあったのです。
石炭は基幹産業として釧路地域発展の礎を築き、今も続いています。今回は紅葉映える釧路地域の山々に息づく、炭鉱の歴史を辿ります。
道内で石炭の街というと夕張が有名ですが、道内で始めて採掘が行われたのは釧路地域。幕末の1856年、開国によって函館に寄港する外国船へ石炭を供給する必要が出てきたことに起因します。
そこで以前から石炭があることを知られていた、釧路市益浦の海岸線で採掘が始まりました。しかし炭層の薄さや船の着けにくさなどの条件で翌年から白糠に移動。道南の茅沼炭鉱が登場するまでの7年間、蒸気船などの燃料として石炭が採掘されていたのです。
釧路地域で本格的な炭鉱が開坑したのは1887年、最初の採炭から30年近く経った後のこと。安田生命などを設立した日本四大財閥・安田財閥によって、春採湖畔で「春鳥炭山」が始められます。その後大正時代にかけて、釧路地域ではあちこちで炭鉱が開かれるようになっていきました。雄別炭鉱が登場したのもこの頃です。多くの炭鉱は深い山の中にありましたが、次第に炭鉱集落は賑わいを見せてきました。
戦後もそれらの炭鉱は復興を支えましたが、高度成長期の産業構造転換の中で釧路地域の炭鉱も大半が閉山し、太平洋炭鉱が釧路地域唯一に。機械化と災害ゼロを推し進めて最盛期には年間261万㌧の生産量を誇りましたが、2002年に閉山を余儀なくされます。しかし炭鉱の灯を未来へ継ぐことを決め、地元企業が出資して設立された新企業、釧路コールマインに引き継がれることとなります。そして現在も国内唯一の坑内掘り炭鉱として採掘が続けられているのです。生産量は年間約50万㌧で、8割が火力発電、2割が地元の工場のエネルギー資源として活用されています。また炭鉱の生産保安技術を伝える国の事業として中国・ベトナム・インドネシアから年間で150人に及ぶ研修生の受け入れや海外にも赴いての安全管理を指導。「生きた現場」としての経験・実績が高く評価され、災害率を大幅に減少させるなどの成果を上げています。
国内にある多くの炭鉱が閉山していく中で釧路コールマインとして炭鉱が唯一残った理由には、旧太平洋炭鉱時代から続く「保安第一」という経営指針にあると私は考えています。そう語るのは釧路市立博物館に勤務しながら、釧路の石炭産業の研究を続ける石川さんです。
太平洋炭鉱がその方針に向かったキッカケは1954年に起きた39名の人命を奪ったガス爆発でした。それを教訓に生活面でもさまざまな取り組みが行われました。従来の炭鉱住宅から持ち家制度を導入するなど意識改革を行い、労働者が自律的に働く仕組み作りがなされたのです。炭鉱しかない山間部ではなく釧路市内という開けた土地にあったことで、炭鉱ではない人たちの暮らしぶりを知ることができたことも要因のひとつでしょう。事故が起こることが前提で働くこと、それは決して良いことではないと気付いたのがこの街の炭鉱。
だから唯一残れたのだと私は思います。今の時代では年間死亡事故ゼロは当たり前ですが、当時は違いました。けれどいち早く取り組んだ、そんな前向きな釧路の炭鉱が好きで、研究を続けています。
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