旅のしおり/ travel bookmarks
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支笏湖エリア / DATE 2019.12.12
苫小牧と支笏湖を結んだ 軽便鉄道の記憶
時を遡ること、111年。苫小牧と日本最北の不凍湖、支笏湖が1本の鉄路で結ばれました。当時の王子製紙が苫小牧工場建設のため、広大な原野を切り開いてレールを敷 いた軽便鉄道「山線」です。明治から昭和まで北海道の製紙産業を陰で支え、1951(昭和26)年8月にその役目を終えましたが、鉄路の跡はサイクリーングロードとなり、 機関車や支笏湖の鉄橋は産業遺産に認定されています。人々の遠い記憶の中に眠る軽便鉄道「山線」の歴史をご紹介しましょう。
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阿寒湖エリア / DATE 2019.09.05
春の釧路街道で馬に出逢う。
釧路に馬が入ったのは寛政十二(1800)年のことである。幕府がロシアに対する防具をにわかに固めだし、警備役人のほか伊能忠敬や近藤重蔵らも東蝦夷地に放たれた。こうした役人や探検家らが移動用に連れてきた馬が、蒙古馬を起源とする南部馬であったようだ。そして冬の間、蝦夷地に放置されて寒さに適応していった元南部馬が、道産子(北海道和種馬)の先祖ではないかと言われている。今年3月、道東自動車道が開通し、より広く周遊できるようになったひがし北海道。旅の途中で体高130センチ前後のどっしりとした、たてがみが豊かな馬を見かけたら、それはきっと道産子。過酷な原生林で働き、厳しい冬を乗り越えた強靭なDNAを感じるはずだ。名馬ゆかりの地、釧路市大楽毛の「神馬事記念館」へは、阿寒ICからのアクセスが便利です。
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阿寒湖エリア / DATE 2019.08.16
炭鉱の歴史を巡る情緒の秋。
紅葉美しい春採湖畔を走る、石炭を積んだ貨物列車。1925年から現在まで続く情景です。阿寒湖畔を含む釧路市は、国内で唯一坑内掘りの炭鉱が残る街。また国内でも有数の豊富な炭層を持つ地域です。かつては多くの炭鉱が栄えており、阿寒町にあった雄別炭鉱もそのひとつ。国立公園の指定を受けて温泉地として発展してきたこの阿寒には、炭鉱の姿もあったのです。石炭は基幹産業として釧路地域発展の礎を築き、今も続いています。今回は紅葉映える釧路地域の山々に息づく、炭鉱の歴史を辿ります。
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屈斜路エリア / DATE 2019.08.16
時代おくれでもいい。地域の造り酒屋として醸す。
ふくつかさ、福を司るとは、なんと縁起の良い名でしょう。幸福を呼ぶ酒として地域の人々に親しまれてきた地酒、福司のふるさとは釧路市。冷涼な気候風土のもと、大自然がろ過した自然水と北海道産の米で手造りされています。
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阿寒湖エリア / DATE 2019.08.15
幕末の探検家 松浦武四郎の軌跡
対外問題に揺れる幕末。ロシアの侵略を危惧して、独断で3回の蝦夷地調査に赴いた松浦武四郎。阿寒を訪れたのは6回目となる1858年。幕府の用命で初めて道東の内陸部を調査した際のことです。道東については「阿寒誌」「摩周誌」など8冊に記したものが箱館奉行に提出され、のちに要点をまとめた紀行文「久摺日誌」として広く発行されました。久摺日誌の中で武四郎は地理に詳しいアイヌを頼りに徒歩や舟で、釧路の大楽毛から阿寒、舎利、弟子屈、標茶という過酷な距離を巡ります。「一般的に江戸時代の旅人の歩行距離は1日30~40㎞と言われますが、武四郎は多い時には60~70㎞も歩いたようです。並外れた健脚の持ち主だったのですね」と、北海道博物館で武四郎の研究をしている三浦学芸員。久摺日誌で山中は常にけもの道で、時には草の根にしがみつき、時には腰までの雪をかき分けて進んだと記されています。道東を巡った武四郎の感想は「果てしなく肥えた良い土地であり、決して不毛の地ではない」と言わしめるほど。旅の中で書き残した風景には「続く山の峰の間に、釧路などの川が、まるで蜘蛛が糸を引くように入り組んで流れている」など詩的な表現で記されている場所も多く、知るはずの阿寒を見知らぬ異国のように感じさせます。また武四郎は阿寒湖畔の温泉も旅の合間に楽しんでいます。日誌では「高さ30m以上ある亀の甲羅に似た赤い石から温泉が湧き、渓流の冷たい水と合わさって湯加減がぴったり。3年分の疲れも消え失せるように思われる」とまとめていました。
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阿寒湖エリア / DATE 2019.07.30
大自然と異文化に触れる アドベンチャー(冒険の旅)へ
世界的に稀有なフィールドで新しい旅のスタイル「アドベンチャーツーリズム」を愉しめるのが、4月にオープンした「鶴雅アドベンチャーベースSIRI(シリ)」。自然や異文化の体験にフォーカスした滞在型の旅行スタイルを発信する基地(べース)で、阿寒摩周国立公園という屈指の自然だけでなくアイヌ文化までを堪能できる、独自性の高い旅を提供していきます。古の信仰が息づく絶景の森をエキスパートのガイドの下、カジュアルに体験できる個性的なツアーが取り揃っています。
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サロマ・オホーツクエリア / DATE 2019.07.30
夏のオホーツク、歴史ロマンの旅
うだる暑さの中、ひとときの涼をもとめて水べりでゆったりした時間を楽しむ「川床」は夏の風物詩。同じように夏には「夜の秋」という季題があります。堪え難く暑い日中とは打って変わり、早くも秋の気配を感じるほど涼しいと思わせる夜は、道東の夏ならではのこと。そんなどこかノスタルジーを感じさせる道東には、歴史を紐解くような大人の旅が似合います。今回は道東に遺された遺跡からアイヌ文化よりも古いオホーツク文化を巡る旅。古に想いを馳せる、味わい深い夏はいかがでしょうか。1300年前の遥か昔、サハリンから道東の沿岸部にかけて、住み着いた民族がいました。海で狩りをする交易民族「オホーツク人」です。その存在が明らかになったのは1913年、理髪職人の米村喜男衛(きおえ)氏によるものでした。考古学を独自に学んでいた米村氏は考古学の権威であった鳥居龍蔵氏に出会い、アイヌ文化の存在を知ることとなります。アイヌ文化に非常に興味を抱くようになっていった米村氏は「実際に北海道を見てきてはどうか」という鳥居氏のひと言で、仕事道具であるバリカンと鳥居氏の著書1冊だけを手に北海道へ。米村氏の旅は当時の列車で行ける北海道の最終地点、網走へとたどり着きます。その網走川沿いには貝殻層があり調査を始めて見つかったのは、鳥居氏の研究室でも見覚えのある粘土紐を貼り付けた土器。鳥居氏に師事していた米村氏だからこそ、発見した土器がそれまでに見つかっていない全く新しい文化の足跡だと気が付いたのです。米村氏は最寄村で発見したことから「モヨロ文化」と命名。その後オホーツク海岸沿いに同様の痕跡が見つかることから「オホーツク文化」と名を変え、米村氏の孫・米村衛さんによって今も研究が続けられています。
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函館・大沼エリア / DATE 2019.07.25
石川啄木が愛した北海道
本州の最北端である大間埼が霞む函館の大森浜海岸に、考え込むような誰かの影。明治の歌人と謳われた石川啄木の座像です。1886年、岩手県にある日照山常光寺に生を受けた啄木。後の言語学者となる金田一京助の影響を受けて文学に傾倒した啄木は、ゆかりのある岩手や北海道はもちろん国内外でも広く知られる歌人となりました。彼はこう言い遺しました。「詩は食らうべきもの。食事の香の物の如く、然く我々に必要な物の一つにする。それが詩を肯定する唯一の途である」。26年間という短すぎる生涯の中で彼は言葉通り、日常を綴った多くの詩を遺したのです。今回は今なお、かの実像を追い続ける道内の研究者に、啄木の魅力について尋ねます。大火によって函館を後にした啄木は職を求めて札幌から小樽へと移り、さらに当時の釧路新聞社(現・北海道新聞社)の新聞記者として働くことになります。あまり良い思い出がなかったと言われる釧路時代について、国際啄木会の北海道支部長を務める北畠立朴さんに語っていただきました。
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函館・大沼エリア / DATE 2019.07.25
函館で辿る 西洋式公園と自然公園のルーツ
今では当たり前に生活の傍にある公園。かつて日本では庭園という名で、主に鑑賞や思索などを目的とする私的なものとして存在してきました。今でいう公園が開設されたのは明治時代以降のこと。公園という概念は外国人によって持ち込まれ、外国人専用運動場として神戸に開設された外国人居留遊園が日本で最初の公園です。その後、太政官による布達が発された明治6年から明治20年頃までを公園創設期とすると、全国に開設された公園は約80ヶ所。函館公園は全国初のパートナーシップ公園として独自の運営を行っていきました。
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サロマ・オホーツクエリア / DATE 2019.07.25
捕鯨船のポーが鳴る町
現在、唯一捕鯨が行われている道東。中でも網走は100年に渡る歴史を重ねています。昭和24年頃には少なくとも23隻の捕鯨船が活躍し、最大192頭を捕獲していた網走の海。捕鯨の帰船を知らせる「ポー」の音は、子どもから大人までが解体場に走り寄り、賑わいを告げる鐘の役目を果たしていました。今回のまろうど便りでは、かつて捕鯨が基幹産業として、街を盛り立てていた頃の網走をご紹介いたします。しっかりと歴史に記されている捕鯨の歴史は100年ほどですが、その起源は約1300年前に遡ります。捕鯨を行っていたのは古墳文化の後期から奈良・平安時代の前期に渡って、カラフトや奥尻まで広がり栄えていた交易民族・オホーツク人。当時の遺跡や住居跡からはクジラの骨が発見されており、クジラの絵が描かれた骨製の針入れやマッコウクジラの牙で作られた像なども見つかっています。更に、それらは浜に打ち上げられたクジラではなく、海上で立ち向かって捕鯨したもの。その証拠に根室の弁天島で出土した針入れの表面には「7人ほどが乗り込んだ船の先端に立ち上がったひとりが、クジラに銛を打ち込もうとしている様子」が鮮やかに描かれているのです。またこの頃、オホーツク人の漁は石器と金属器の併用時代を迎えており、突き刺さった銛が抜けにくい二重かさになった道具も発掘されていま す。このことから、当時のオホーツク人、つまり網走での捕鯨は1300年前から今につながる伝統産業とも言えるでしょう。
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札幌・定山渓エリア / DATE 2019.07.23
北海道の軟石文化を訪ねて
北海道の街を巡ると、風情ある石造りの倉庫などを見かけることがあります。特に小樽運河では石造りの倉庫群が建ち並び、歴史的情緒を感じさせます。これらの建物は多くが軟石を積み上げたものです。キッカケとなったのは支笏火山噴火により約4万年の歳月をかけて形成された石。2018年に「札幌軟石」として北海道遺産に認定されたものです。発見以降、北海道全土に建築資材として分布し、各地で石を採掘し始めるキッカケとなった軟石の軌跡を辿ります。札幌の情緒ある景観を生出している石造りの建物。それらの多くは札幌軟石という石材でできています。札幌軟石という言葉に聞き覚えがない方も多いでしょう。なぜなら2018年に北海道遺産に認定されたばかりの新しくも古い魅力的な意思なのです。では札幌軟石とはどんなものなのか。北海道遺産認定に深く関わり、札幌軟石を語る会の活動を行う佐藤俊義さんに特徴や歴史についてお聞きしました。札幌軟石は約4万年前に発生した支笏火山の大噴火によって形成された石材です。後に支笏湖を生み出すほどの噴火によって発生した火山灰や軽石などを含む火砕流は苫小牧、千歳、札幌南部へと流れだし、堆積したものが歳月をかけて石化。明治初期に札幌南区(旧穴の沢)で発見されることとなります。札幌軟石は他の石材に比べ、低い硬度、高い断熱性を耐火性があります。火災に頭を悩ませていた開拓使にとっても最適な建築資材だったのでしょう。明治12年には石造りの住宅建築を行ったものに建築貸与制度が定められたという記録も残っています。開拓方針として奨励されたことで、明治14年の5万7千才(1才=一辺が約30センチの立方体)という採掘記録以降、多くの建造物に活用されていきました。特徴的なのは、そこから全道へ普及していったこと。遠い十勝でも札幌軟石を使った倉庫が残されており、広がりの一端を感じることができます。普及は各地域独自の軟石採掘にもつながったものも多く、分かっているだけで独自の軟石は十数種類。色も材質もさまざまです。また、コンクリート造の台頭により衰退していった各地の軟石に対して唯一、札幌南区の辻石材工業(株)で採掘され続けているのも札幌軟石です。現在では意匠材としての価値が見直され、店舗の内装などに用いられる事例が増えてきています。「札幌軟石を知ったのは、15年間に藻南公園の設計がキッカケです。地元の人たちに話を聞く中で石切職人の方に出会い、文献などを読み込むうちにどんどんとハマっていきました。札幌建築観賞会の活動で道内各地にも軟石建築があることが分かり、北海道独自の文化なんだと多くの人に知ってもらいたくなったんです。札幌軟石は空気を多く含んだ石なんですね。だから軽くて保湿性も高い。昔から札幌には玉ねぎやりんごの倉庫などが建ち並んでいて、その多くに軟石が使われてきました。倉庫や蔵を石造りにした例は多く、大事なものは軟石に閉まっておくという意識だったんでしょう」と佐藤さんは話します。
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