函館で辿る 西洋式公園と自然公園のルーツ

DATE 2019.07.25

今では当たり前に生活の傍にある公園。
かつて日本では庭園という名で、主に鑑賞や思索などを目的とする私的なものとして存在してきました。今でいう公園が開設されたのは明治時代以降のこと。公園という概念は外国人によって持ち込まれ、外国人専用運動場として神戸に開設された外国人居留遊園が日本で最初の公園です。その後、太政官による布達が発された明治6年から明治20年頃までを公園創設期とすると、全国に開設された公園は約80ヶ所。函館公園は全国初のパートナーシップ公園として独自の運営を行っていきました。

道内最初の西洋式公園として誕生した函館公園ですが、同時に全国でも類をみない市民参加で整備されたパートナーシップ公園でもあります。当時の函館は開拓使の直接指揮と投資で都市開発を行った札幌に比べ、開港により外国貿易で財をなした商人たちも積極的に街の整備を行っていました。公園もそのひとつで設置のキーマンとなったのが、当時の函館でイギリス領事を務めていたリチャード・ユースデンです。リチャードは後に函館四天王とまで呼ばれる豪商・渡辺熊四郎に公園の必要性を訴えます。「病人に病院が必要なように、健康な人には公園が必要である」と。公園という存在自体を知らない渡辺は当初乗り気ではなかったものの、最終的に金1,000円(現在の500万程度)を寄付し、周囲の商人にも働きかけていきました。また他地域では外国人専用となっていた西洋式公園ですが、在留邦人が少なかった函館だからこそ西洋式ながら万人が利用できる運びとなったのです。その後、金持ちは資金や樹木などを提供し、一般市民は函館市庁の支市庁を先頭に土木作業に参加したと言われています。その数は9,081人に及びました。例外なく函館市民全員が参加したことは自らの公園であるという意識を高め、整備を終えた明治12年に盛大な開園式を行うと共に日本人や外国人を問わず利用できる公園となったのです。公園を作るにあたっては有志が数千円の寄付を行い、国から資金1,000円、維持管理費2,000円(4年間分)を投じたとされています。現在でも、函館公園は創建当時の趣を守りながら、維持管理を行っています。
 

函館公園が人口の整った公園であるならば、特異な自然を活かした公園が大沼国定公園です。誕生は函館公園の設置より24年後の明治36年。すでに大沼は、函館から小樽へ抜ける交通の要となった小沼・蓴菜沼近辺をルーツとして、観光の名所として知られていました。調査によって大沼は道立公園予定地(面積約48,779坪)として開発が進められ、後に日本の公園の父と呼ばれる日比谷公園などを手がけた林学博士・本田静六によって公園の設計が考案されます。本田静六は2回大沼を訪れて実地調査や測量を行い、以後案に則した整備が行われていきました。記録では公園内に鹿撃ち場、鹿園、シャクナゲの群生エリアなどが設けられていたとされ、橋も宮大工によるものが多かったといわれ、ジグザグの八つ橋も架けられました。「大沼特有の原風景を変えずに自然の四季を楽しむ、日本らしさを感じる公園だったのではないか」と七飯町歴史館の山田央さんは話してくれました。
日本の公園の父が手がけた大沼公園の景観が大きく変化したのは、国定公園の指定運動に盛り上がった昭和20~30年代頃のことです。戦後復興の足がかりとして観光に注目が集まっていました。以前より観光地として確立していた大沼も例外ではなく、湖水に浮かぶ島々間の橋梁の改修、公園広場にある売店の移動、空中観覧車、ウォーターシュート設備、湖上遊覧のための橋梁の増設、公園広場の緑化、温泉掘削など、次々と大規模な開発が行われます。大沼の湖面を渡る屋形船はモーターボートへ、大沼は一大レジャーパークへと姿を変え時代のニーズに対応していったのです。山田さんは「現在の大規模駐車場がある場所も、以前は湖が広がっていました。木造の橋はコンクリート製が多くなり、往時の面影はありません」と言います。時代のニーズに対応していくには、潤沢なランニングコストが必要なもの。当時として画期的だった空中観覧車は昭和40年に函館公園へと移され、現在も国内最古の観覧車として函館公園内の簡易遊園地「こどものくに」で稼働し続けています。

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