人はいずれ尽きるとも作品の命は無限
初めに先代社長とのなつかしいエピソードにふれさせていただきたい。
時は昭和四十四年に遡る。私は故前田光子夫人より正次翁十三回忌にあたり樹霊観音像の制作を拝命した。
阿寒の奥山から探し出されたオンコは樹令三百年を有に越えた大木だった。失敗は許されなかった。山に籠り全身全霊を尽くした月日を過ごし半年後、ついに完成の日を迎えたのだった。法要のためお迎えした知恩院門跡、岸信宏様の入魂の声は深く心に染み入るものだった。
さて、御門跡御一行のお見送りを迎せつかり、千歳空港までの道中で、知る人ぞ知る事件が起こった。
観光名所を巡りながら、その日の宿は伊達門別のとある寺院…手入れの行き届いた檜の風呂に先ず最初は御門跡が入浴された。
ありがたい二番風呂を…と心待ちにしていた光子夫人の思いも露知らず我らお供の男四人(先代大西正昭社長はじめ札幌宮越屋社長、北海道新聞の森氏、そして私である。)何ためらうこともなく二番風呂につかり、和気あいあいといい気分で出てきた湯上りしなに、待ち構えていた夫人に爆弾のごとき大目玉を喰らったのは言うまでもない。清らかでありがたい湯ぶねが、たちまち不浄と化してしまったのだから。
若輩だった私はさておき、大西、宮越両氏は十重二十重にこってりと油をしぼられていたことが思い出される。
この大失敗も今となってはなつかしい昔話となってしまった。
先代も、光子夫人も、御門跡も、皆むこうへ移られ寂しい限りだ。
時は流れ、奇しくも現在の私はかの大西社長の御子息である二代目雅之社長と木彫を通じての御縁を得ることになった。
近年、私はすでに絶滅した野性動物達に思いを寄せて彫っている。
かつて北海道が大原始林におおわれ、湖水に浮かぶまりもが「トーラサンペ」と呼ばれていたその昔、神秘な静けさが支配していたかに思えるこのあたりは、意外に騒々しかったのではあるまいか。
川や湖は魚があふれ、野山は大小の動物達が行き交い、海に出ればクジラやシャチ、ラッコらも同じみの顔ぶれだったはずだ。
ことに秋の河川は登ってくる鮭を食す冬眠を控えた熊達でさぞ賑わっていたに違いない。
今はすっかり姿を消してしまったオオカミ、ラッコ、シャチなど、彼らがこの大地を自由に闊歩していたのだよと訴えたいのだ。
この所手がけているオオカミは表情をいかに出せるか、いつも祈るような思いでノミを入れている。
スミソニアン博物館に展示された揺れる昆布の中のラッコはスタッフ達の一番人気だったそうだ。
長年手掛けて来た熊はことに好きな対象であり、彼らの内なるものを形に表し留めることにさらに制作意欲をかきたてられている。
所詮人はいずれ尽きる運命にあるけれども作品の命は無限である。作品の中に自らの魂を吹き込めることに無上の喜びと感謝の念が年と共に深まっている。
二代目社長曰く。「何と言ったって阿寒の宿には地元の木彫りだよ!」
つまり絵でもオブジェでもないというのだ。
木彫りを業としてきた者としてこんなうれしい言葉はない。そして展示空間にも最大限の心配りをなされるに及んでは、作り手冥利に尽きるのである。
すでに私は七十となったが、幸いすこぶる健康である。
この心意気に応えられるようさらに精進していきたいと願っている。