苫小牧と支笏湖を結んだ 軽便鉄道の記憶
時を遡ること、111年。苫小牧と日本最北の不凍湖、支笏湖が1本の鉄路で結ばれました。当時の王子製紙が苫小牧工場建設のため、広大な原野を切り開いてレールを敷 いた軽便鉄道「山線」です。明治から昭和まで北海道の製紙産業を陰で支え、1951(昭和26)年8月にその役目を終えましたが、鉄路の跡はサイクリーングロードとなり、 機関車や支笏湖の鉄橋は産業遺産に認定されています。人々の遠い記憶の中に眠る軽便鉄道「山線」の歴史をご紹介しましょう。
1908(明治4)年8月、苫小牧から支笏湖を目指し、黒塗りの蒸気機関車が運行を開始しました。通称「山線」その翌年に苫小牧から鵡川(現・ むかわ町)までの海岸沿いにも鉄路が敷かれたため、支笏湖方面は「山線」、もう一方が「浜線」と呼ばれるようになったのです。「浜線」はその後、国鉄(現在のJR北海道)の日高線としての歴史をたどっています。
「山線」も「浜線」も正しくは、軽便(けいべん)鉄道に分類される軌間(レール幅)も車両も小さな鉄道のこと。明治から大正期には多くの軽便鉄道が活躍しましたが、今では「軽便」という言葉も、そこに鉄道があったことも、人々の記憶から失われつつあります。
「山線」は1873(明治6)年に設立された王子製紙が苫小牧工場建設のために敷設した専用の軽便鉄道です。工場の操業に必要な電力確保のため、支笏湖を源とする千歳川に発電所を建てようと、資材や人員を運ぶための馬車道が造られ、その後、軌道が整備されていきました。原野を切り開いて敷かれた軌道には11の駅が設けられましたが、その多くはホームだけの簡易なもの。「山線苫小牧」駅を出た列車は「分岐点」駅で二股に分かれ、「上千 歳(第4発電所」駅までの本線が全長34km、「分岐点」駅から「湖畔」駅までの支線は全長約3km。
今でこそ、車で20分もあれば着いてしまう距離を当時は1時間半以上かけて走っていたそうです。
1922(大正11年4月から一般客の乗車も始まった「山線」は支笏湖でのチップ(ヒメマス)釣りや山菜採りを楽しむ行楽客などで賑わいを見せます。「急勾配を登れない時は乗客が降りて、列車を押した」、「途中で飛び降りて、草むらで用を足しても追いつけた」など、数々の逸話も残され、皇族や政財界の要人も湖畔の支笏湖倶楽部を訪れるために「山線」に乗車されています。
王子製紙苫小牧工場敷地内に建つ迎賓館「王子倶楽部」(一般公開は不可)には皇室ゆかりの品々や「山線」に関する資料などが大切に保管され、「エ場創設100周年を迎えた2011年にはあゆみを記した社史と写真集を編さんしました。『山線』は1951年に廃止されましたが、苫小牧工場の礎を築いた貴重な史実となっています」と同工場事務部グループマネージャーの伊藤隆雄さん。当時建設された5つの水力発電所は現在も全て稼動し、現役の水力発電所としては国内最古。2007年1月に認定された近代化産業遺産群の中にはこれらの水力発電所や4号機関車、支笏湖畔に架かる鉄橋などが含まれています。
そして、その鉄橋を軸に「山線」の記憶を次世代へとつなぐ新たなプロジェクトが動き始めています。
支笏湖の情報発信の拠点、支笏湖ビジターセンターを運営する(一財)自然公園財団の支笏湖支部統括でもある木下さんは、2019年5月に発足した「温故創新 支笏湖・山線プロジェクト」の事務局長を務めています。「山線」と関わることになったきっかけは同センターのそばの支笏湖畔に架かる赤い鉄橋の存在でした。「山線の歴史を調べていくうちに先人たちの努力や苦労を知り、有形・無形の価値を伝えていく必要があると思ったんです」。
「山線鉄橋」は木造だった橋の架け替えの際、北海道官営鉄道の空知川に架かっていた「第一空知川橋梁」を移設したもので、「山線」の開業以前の1899(明治32)年に英国から輸入された当時の最新様式。1924(大正13)年からこの場所で列車を支え、現在は道内最古の現役の鋼橋として、観光客のための歩道橋となっています。
そして、2018年山線鉄橋が選奨土木遺産に認定されたことを契機に木下さんたちのプロジェクトも大きく動き出します。同センターに隣接するパークハウスが2020年1月下旬、王子軽便鉄道ミュージアム「山線湖畔」としてオープンすることとなったのです。
ミュージアムには新たに製作したジオラマと鉄道模型が展示され、「山線」の歴史に触れることができます写真や米国製の刻印がはっきりとわかるレールの一部も展示される予定で、入場は無料。木下さんは「山線」の歴史を次の世代に引き継ぐミュージアムの完成に安堵しながら、「いつか機関車を復活させて、レールの上を走らせたい」という夢も描いていました。
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